ベルリンの壁、その向こう側へ・・・分断と再生の都市を歩く

2025年8月7日

なぜ今、ベルリンの壁を歩くのか?

ベルリンは2025年、壁崩壊から36年を迎えます。
ただの過去ではなく、「今の都市構造」や「人々の暮らし」にまで影響を与え続けている壁の記憶。


今回は、Gedenkstein(分断と戦争の犠牲者追悼碑)とその周辺、そしてテーゲル空港やノイケルンの歴史的背景とともに、壁の存在が何をもたらし、今にどうつながっているかを深く掘り下げてご案内します。

ベルリン分断の始まりと、壁の誕生

第二次世界大戦後、敗戦国となったドイツは米・英・仏・ソ連によって4つの占領地区に分割され、首都ベルリンも同様に分けられました。
1949年、ドイツは西(連邦共和国)と東(民主共和国)に完全に分裂。そして、ベルリン市内でさえ、東西に引き裂かれる都市となったのです。

人々が自由に行き来できたのは束の間でした。
1961年8月13日、東ドイツ政府は突如、鉄条網と兵士による封鎖を開始。これが「ベルリンの壁」の始まりです。

当初は仮設バリケードでしたが、やがてコンクリート壁、監視塔、照明、警備犬、有刺鉄線と地雷、そして「死の地帯(Todesstreifen)」と呼ばれる監視ゾーンを伴う“脱出不可能な境界線”へと変貌。
ごく普通の家庭や職場が、一夜にして分断されたのです。

テーゲル空港:封鎖都市の“空の窓”

西ベルリンに位置するテーゲル空港は、1948年のベルリン封鎖の際、米英軍による「ベルリン空輸作戦」の要として突貫工事で建設されました。
市民へ食料や燃料を届ける“命綱”として稼働を続け、壁建設後も西ベルリン唯一の国際空港として孤立都市を支えました。

周囲をすべて東ドイツに囲まれた西ベルリンにとって、テーゲルはまさに「世界とつながる唯一の道」だったのです。

既にテーゲルは使用されていません。

私がベルリンに住んでいた頃は、まだテーゲルがメインの空港として機能していたので、とても残念。

とてもシンプルな作りで、飛行機を降り立ったらすぐに外に出られるという、私の今までの旅行した中で、一番早く空港を出ることのできた場所でした。

東ベルリンの暮らしと人々の思い

東側に残された人々の生活は、物資不足と移動の自由の制限の中にありました。
西側に住む家族に会えないまま人生を過ごす人、生活物資を求めて西へ逃れようとした人など、脱出を試みて命を落とすケースも数多くありました。

「できるなら、向こう側へ行きたい」
それが、当時の東ベルリン市民の本音だったと言えるでしょう。

Gedenksteinと、分断の“記憶が残る場所”を歩く

ベルナウアー通り(Bernauer Straße)沿いに佇む「Gedenkstein」(正式名:Gedenkstätte für die Opfer des Zweiten Weltkriegs und der deutschen Teilung)は、第二次世界大戦とドイツ分断の犠牲者を悼む記念碑です。

石碑の周囲は静かな自然に囲まれ、訪れる人が歴史と向き合う空間として設計されています。
すぐ近くの「ベルリンの壁記念館(Gedenkstätte Berliner Mauer)」では、壁そのものの遺構や見張り塔、ドキュメント展示が見学でき、分断時代の実像を学ぶことができます。

チェックポイント・チャーリー:冷戦時代の「最前線」

ベルリンの壁の象徴的スポットのひとつが、チェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)
ここは冷戦期、アメリカ軍が管理していた西側と、ソ連が支配していた東側との正式な国境検問所でした。

この場所は、東西に分断されたベルリンにおいて外交官・ジャーナリスト・軍人のみが通過を許された特別ルートであり、一般市民は通れない場所。
壁の向こうに「自由」があると信じ、命がけで越えようとした多くの東ドイツ市民たちの希望と絶望が交差した地でもあります。

1961年にはここで米ソ戦車がにらみ合うという「チェックポイント・チャーリー対峙事件」も発生し、世界が第三次世界大戦の危機を感じた瞬間でもありました。

現在は、当時の検問所を再現した小屋と、兵士の写真パネル、記念プレートが設置されており、観光名所としても人気の高いスポットになっています。近くには「Mauermuseum(壁博物館)」があり、脱出トンネルや偽装車両、手製の飛行機など、実際に使われた脱出手段が多数展示されています。

📍Checkpoint Charlie
住所:Friedrichstraße 43-45, 10117 Berlin
アクセス:地下鉄U6線 Kochstraße駅からすぐ

崩壊と混乱、そして新しい街の始まり

1989年11月9日、東ドイツ政府の会見により、渡航規制が「即時解除」と解釈されたことが引き金となり、市民が壁に押し寄せて実質的にベルリンの壁は開放されました。
翌年10月3日、東西ドイツは正式に再統一。

しかし統一後の数年間、ベルリン市内では警察力が一時的に機能不全となり、多くの空きビルが放置状態に。若者や芸術家、ホームレスたちがこうした建物を無許可で占拠(スクワット)し、勝手に住み始めた時代が続きました。

特にプリンツラウアーベルク(Prenzlauer Berg)やフリードリッヒスハイン(Friedrichshain)、ノイケルン(Neukölln)では、スクワッターによる文化活動や自主運営スペースが生まれ、今の“オルタナティブ都市ベルリン”の基盤となっていきました。

不動産ブームと家賃高騰のリアル

再統一後、かつて国有だった東側の住宅や建物は、政府によって格安で民間に払い下げられました
これにより、当時投資できた人たちが現在の大規模オーナーになっているケースも少なくありません。

2004年以降、ベルリンの不動産価格は上昇を続け、この15年間で2倍以上に。
特にフラットの賃料は、新築や改装物件で1平方メートルあたり€18〜€25に達する地域もあり、住民の退去やジェントリフィケーションが問題視されています。

ノイケルンの現在地:多様性と歴史の交差点

かつて壁の影にあったノイケルン(Neukölln)は、今や多国籍文化とアートが混ざる刺激的な街に生まれ変わりました。
トルコ系・アラブ系住民が多く、モスクやベーカリー、ファラフェル店が並ぶ風景は、ベルリンの「今」を最も象徴するとも言えます。
昔のスクワット文化が残るアトリエや共同スペースも点在しており、過去と未来の記憶が溶け合った不思議なエネルギーを感じられるエリアです。

ベルリンの壁は、物理的には消えても、街の構造、人の暮らし、そして不動産の所有権にまで今なお影響を与えている“生きた記憶”です。
Gedenksteinやノイケルンの路地を歩くことで、ただの観光ではない、「都市と記憶」をめぐる体験ができるでしょう。

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